記憶の図書館のひみつ
みなさんは、たくさんの本がならんでいる図書館に行ったことがありますか?大きな図書館では、本を探すのに「本の分類表」や「検索コンピューター」が必要ですよね。実は、私たちの脳の中にも、「記憶の図書館」があるんです!その名前は「海馬」(かいば)といいます。
この「海馬」の中でも、特に「CA3」という場所は、記憶を保存する大切な役割をしています。まるで図書館の中で、本(記憶)を整理して、必要なときにすぐ取り出せるようにしてくれる「記憶の本棚」なのです。
人間の脳の記憶図書館はどうなっているの?
科学者たちは、人間とネズミ(マウスやラット)の脳を比べる実験をしました。人間の脳を調べるのはとても難しいのですが、てんかんという病気の手術で取り出した脳の一部を、特別な方法で生きたまま調べることができるんです。
調べてみると、人間の記憶図書館(CA3)は、ネズミの記憶図書館とは少し違うことがわかりました。人間の記憶図書館には、ネズミよりもずっとたくさんの「本棚」(神経細胞)があります。でも、本棚同士をつなぐ「橋」(シナプス)は、意外とまばら(スパース)だったのです!
図1の説明: これは人間の脳から取り出した「海馬」という部分です。上の絵(A)は実験の方法を示しています。手術で取り出した脳の一部を、特別な溶液の中で生かしたまま調べます。中央の絵(B, C)は、脳のどの部分を調べたかを示しています。下の絵(D-H)では、神経細胞から電気信号を記録して、神経細胞同士がどうつながっているかを調べています。
記憶の本棚は「まばら」につながっていると記憶力アップ!
みなさんが図書館で友だちと話すとき、近くの友だちとだけおしゃべりしますか?それとも、遠くの友だちともおしゃべりしたいですか?
科学者たちが調べたところ、人間の脳の中で「大脳皮質」という場所では、神経細胞は近くの神経細胞とたくさんつながっています。これは、近くの友だちとたくさんおしゃべりするようなものです。
でも驚いたことに、記憶の図書館(CA3)では、神経細胞は遠くの神経細胞ともつながっていて、でもそのつながりの数は少ないことがわかりました。これは、クラスの中で数人の友だちと「秘密の電話網」をつくり、離れていても情報を交換できるようなものです。
図2の説明: これは神経細胞同士のつながり方を調べた実験結果です。上の絵(A, B)では、8つの神経細胞から同時に記録して、どの神経細胞がどの神経細胞とつながっているかを調べています。中央の絵(C)を見ると、CA3の神経細胞同士のつながり(シナプス)はとても少ないことがわかります。下の絵(D-G)は、大脳皮質の神経細胞同士のつながりと比較して、CA3のつながりがはるかに少ないことを示しています。
人間の記憶の本棚は「確実」に情報を伝える
人間の記憶図書館(CA3)ともう一つ違う点があります。それは、神経細胞同士の情報のやりとりがとても確実だということです。
電話で話すとき、「もしもし?聞こえる?」と何度も確認することがありますよね。これは、電話が時々切れてしまうからです。マウスの記憶図書館の神経細胞は、この「つながりにくい電話」のようなものです。情報が時々途切れてしまうのです。
でも、人間の神経細胞は「高性能な電話」のようなもので、ほとんど途切れることなく、はっきりとした声で情報を伝えることができます。これを科学者は「高い信頼性と精度」と呼んでいます。
図3の説明: この絵は、神経細胞間の信号伝達の確実さを調べた実験です。上の部分(A, B)は、CA3と大脳皮質の神経細胞の信号伝達を比較しています。CA3の信号は長く続き、情報をゆっくり伝えることがわかります。中央部分(D-E)では、電気信号を直接測定しています。下の部分(F-H)では、マウスと人間の信号の確実さを比較しています。人間の神経細胞は信号の伝達失敗が少なく(成功率90%)、マウス(成功率62%)よりもはるかに確実に情報を伝えることがわかります。
手を長く伸ばすけど、指の数は少なめ
図書館で本を取るとき、手を伸ばしますよね。神経細胞にも「手」のような部分があり、これを「樹状突起」と呼びます。そして、その指先には「スパイン」という小さな突起があります。
科学者たちは、人間とマウスの神経細胞を比べてみました。すると、人間の神経細胞は「腕」(樹状突起)がとても長く、マウスの2.4倍もありました!でも不思議なことに、「指」(スパイン)の数は少なめで、マウスの半分しかありませんでした。
つまり、人間の神経細胞は「手を長く伸ばせるけど、指の数は少なめ」という特徴があるのです。これによって、広い範囲の情報を集めつつも、情報の取捨選択ができるようになっていると考えられます。
図4の説明: この絵は、神経細胞の形を調べた実験です。上の部分(A, B)はマウスと人間の神経細胞の大きさの違いを示しています。人間の神経細胞ははるかに大きいことがわかります。中央部分(C, D)では、神経細胞の突起(樹状突起)の長さを測定しています。人間の神経細胞の突起は、マウスの2.4倍も長いことがわかります。下の部分(E, F)では、突起の上の小さな出っ張り(スパイン)の数を数えています。人間の神経細胞は、スパインの密度がマウスの半分しかありません。
どうして「まばら」なつながりが記憶に役立つの?
なぜ人間の記憶図書館は、「まばら」なつながりと「確実」な情報伝達を持っているのでしょうか?科学者たちは、コンピューターを使ってシミュレーションをしました。
想像してみてください。あなたが100人の友だちと「秘密の電話網」を作るとします。2つの選択肢があります:
- 10人の友だちに電話して、その友だちはまた別の10人に電話する(密なつながり)
- 100人全員が互いに電話するけど、1人あたり1〜2回だけ(まばらなつながり)
どちらが情報をうまく広げられるでしょう?実は2番目の方が効率的なのです!同じ数の「電話」でも、多くの人に情報が届きます。
さらに、電話がつながりやすく(高い信頼性)、声がはっきり聞こえる(高い精度)なら、情報はもっと正確に伝わります。
図5の説明: この絵は、コンピューターシミュレーションの結果です。上の部分(A, B)は、神経細胞の数が多く、つながりが少ない(まばらな)ネットワークの方が、記憶容量が大きいことを示しています。中央部分(C)では、信号伝達の精度が高いほど、記憶容量が大きくなることがわかります。下の部分(D)では、最適なネットワークの条件を調べていて、記憶容量を最大にするには「まばらな結合」と「確実な信号伝達」が重要だということがわかります。
「記憶の入口」も人間ではパワーアップ!
記憶図書館(CA3)には、「入口」もあります。それが「モッシーファイバー」と呼ばれる経路です。歯状回という場所から情報が入ってくるのです。
科学者たちは、この「入口」も調べてみました。すると、人間の「入口」はとても発達していて、マウスの約6倍も多くの情報が入ってくることがわかりました!
これは、図書館に運ばれてくる本の量が6倍になったようなものです。だから人間は、たくさんの記憶を保存できるのでしょう。
図6の説明: この絵は、記憶の「入口」を調べた実験です。上の部分(A, B)では、特殊な形の樹状突起(トゲのような突起がある「棘状突起」)を調べています。この部分が「モッシーファイバー」からの入力を受け取ります。中央部分(C)を見ると、人間の神経細胞はこの特殊な樹状突起の長さがマウスの8倍もあることがわかります。下の部分(D, E)では、超高解像度顕微鏡で「モッシーファイバー」の終末(ボタン)を観察しています。人間の神経細胞は、マウスより約6倍多くの「モッシーファイバー」入力を受け取ることがわかります。
この研究はなぜスゴイの?
この研究は、人間の記憶のしくみを初めて詳しく調べたものです。今まで科学者たちは、マウスの脳を調べて人間の脳を理解しようとしていました。でも、この研究で人間の脳の「記憶図書館」は、マウスとは違う特別な性質を持っていることがわかりました。
特に重要なのは、「まばらなつながり」と「確実な情報伝達」という特徴です。これらは、人間が複雑な記憶や思考を持つために、とても重要なのかもしれません。
将来、この研究は認知症などの記憶に関する病気の治療法の開発にも役立つかもしれません。人間の脳の特別な性質を理解すれば、より効果的な治療法を見つけることができるでしょう。
まとめ:この研究でわかったこと
- 人間の記憶図書館(CA3)には、たくさんの神経細胞があり、それらはまばらにつながっている。
- 人間の神経細胞同士の情報伝達は、とても確実で精度が高い。
- 人間の神経細胞は樹状突起が長いけれど、スパイン密度は低い。
- まばらなつながりと確実な情報伝達が、記憶容量を最大化する。
- 人間の記憶の「入口」(モッシーファイバー)は、マウスより大幅に拡大している。
- 人間の記憶システムは、マウスの単なる拡大版ではなく、独自の特徴を持っている。
原論文の引用情報
Watson, J. F., Vargas-Barroso, V., Morse-Mora, R. J., Navas-Olive, A., Tavakoli, M. R., Danzl, J. G., Tomschik, M., Rössler, K., & Jonas, P. (2024). Human hippocampal CA3 uses specific functional connectivity rules for efficient associative memory. Cell, Published online December 11, 2024. https://doi.org/10.1016/j.cell.2024.11.022