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脳の特別なパスポートと免疫系のやさしい警備員

みなさんは、国と国の間を行き来するときに必要な「パスポート(旅券)」を知っていますか?パスポートがあれば、別の国の入国審査官(かんさかん)があなたを確認して、その国に入ることを許可してくれますね。実は、わたしたちの体の中にも、とても大切な「パスポート」「入国審査官」がいるんです!

わたしたちの脳は体の中でもとても特別な場所で、むやみに細菌(さいきん)やウイルスが入らないように、「血液脳関門(けつえきのうかんもん)」という特別な壁で守られています。でも、時には体を守る免疫系(めんえきけい)の細胞も、脳に入って守る必要があるんです。そのとき、脳が出している特別な「パスポート分子」が、免疫系の「やさしい警備員」に「あなたは入っても大丈夫ですよ」と伝えるんです。

脳の特別なパスポート「MBPペプチド」とは?

科学者たちは、脳がどうやって免疫系と会話しているのか調べるために、マウス(実験用のねずみ)の脳を詳しく調べました。すると、脳の表面の膜(髄膜)や、その近くのリンパ節という場所に、脳からの特別な「パスポート分子」があることを発見しました。

この「パスポート分子」は、脳の中の「ミエリン塩基性タンパク質(MBP)」という物質からできています。ミエリンは、脳や脊髄の神経細胞を包むラップのような物質で、電気信号がスムーズに伝わるのを助けています。

このMBPからできた小さな断片(「MBPペプチド」)が、免疫系の細胞の表面にある「MHC-II分子」というディスプレイに表示されるんです。これが脳からの「これは正常な脳の一部ですよ」というメッセージなんです!

図1:脳とその周りで見つかるMBPペプチド

図1の説明: この絵は、マウスの脳、脳の膜(髄膜)、そして首のリンパ節で見つかった「パスポート分子」を調べた結果です。左側の円グラフは、それぞれの場所で見つかった脳由来の分子の割合を示しています。真ん中は、それぞれの場所で見つかったさまざまな脳の分子を示しています。右側は、特に重要なMBPという分子の断片が脳、髄膜、リンパ節でどのように共有されているかを表しています。一番下は、MBPの中でも特に重要な158-195という部分(特別なパスポート部分)を示しています。

脳のパスポートを見せられたやさしい警備員はどうなる?

科学者たちは、このMBPペプチド(パスポート分子)がどんな働きをするのか調べるために、マウスに注射する実験をしました。

普通、MOGという別の脳の分子をマウスに注射すると、マウスの免疫系が脳を攻撃して、「実験的自己免疫性脳脊髄炎(EAE)」という病気になり、足が麻痺(まひ)してしまいます。これは人間の「多発性硬化症(MS)」という病気に似ています。

でも驚くべきことに、MBPペプチドを一緒に注射すると、マウスの病気がずっと軽くなったんです!さらに調べると、MBPペプチドは免疫系の中の「CD4+T細胞」という細胞に働きかけて、「やさしい警備員」モードに変えていることがわかりました。

この「やさしい警備員」モードのT細胞は、「CTLA-4」「TGFβ」という物質を出して、攻撃的な免疫細胞を落ち着かせるんです。まるで、怒っている友達をなだめるように「落ち着いて、落ち着いて」と言っているような感じですね。

図2:MBPペプチドが免疫系を抑制する働き

図2の説明: この図は、MBPペプチド(パスポート分子)がどうやって病気を軽くするかを示しています。左上のグラフ(a)では、MOGだけを注射したマウス(黒い線)は重い病気になりますが、MBPペプチドを一緒に注射したマウス(青い線)は病気が軽くなっています。中央部分(e-g)は、MBPペプチドを注射すると、T細胞が「やさしい警備員」タイプに変わることを示しています。右側(h-k)では、CTLA-4という物質を出す特別なT細胞が増えていることがわかります。一番下(m,n)では、CTLA-4やTGFβという物質をブロックすると、MBPペプチドの保護効果がなくなることを示しています。

病気になると脳のパスポートが消える!?

次に科学者たちは、病気のときに脳のパスポート分子はどうなるのか調べました。健康なマウスと、EAEという病気のマウスを比べてみたんです。

すると驚くべきことに、病気のマウスでは脳の中や髄膜での「MBPペプチド(158-195)」が大幅に減っていました!これは、炎症(えんしょう)によって、脳のパスポートを作る方法が変わってしまったからです。

一種の免疫細胞である「B細胞」は、この特別なパスポート部分をうまく作れないことも分かりました。また、炎症があると、脳の中にいる「ミクログリア」という細胞が活性化して、タンパク質の切り方が変わってしまい、パスポート部分がうまく作られなくなるんです。

これは、とても重要な発見です。病気のときに脳のパスポートが減ると、「やさしい警備員」が少なくなり、攻撃的な免疫細胞が脳を傷つけやすくなってしまうんです。

図3:病気のときのMBPペプチドの変化と治療効果

図3の説明: この図は、病気になったときのパスポート分子の変化と、それを治療に使った結果を示しています。左側(b,c)は、病気のマウスでは特別なパスポート部分(MBP158-195)が大きく減っていることを示しています。右側(d)は、病気のマウスに特別な小さな袋(エクソソーム)に入れたMBPペプチドを注射すると、病気が軽くなることを示しています。下の部分(e-h)では、この治療によって「やさしい警備員」型のT細胞が増えることを示しています。

脳のパスポートを使った新しい治療法

科学者たちは、この発見を治療に使えないか考えました。もし病気で減ってしまった脳のパスポートを補充できれば、免疫系の攻撃を抑えられるかもしれません。

そこで彼らは、MBPペプチドを「エクソソーム」という小さな袋に入れて、病気のマウスの脳脊髄液に直接注入する実験をしました。これは、パスポートを小さな封筒に入れて届けるようなものです。

すると、素晴らしい効果がありました!この治療を受けたマウスは、EAE(脳の自己免疫疾患)の症状が大幅に軽減されたんです。また、脳の髄膜には「やさしい警備員」型のT細胞がたくさん集まっていました。

特に重要なのは、このT細胞たちは、CTLA-4とTGFβという物質を使って、攻撃的な免疫細胞を抑えていたことです。まるで、学校の先生が騒いでいる教室を静かにするように、攻撃的な免疫細胞を落ち着かせていたんです。

図4:MBPペプチドの作用メカニズム

図4の説明: この図はありませんが、論文では図3の続きとして、MBPペプチドが「やさしい警備員」型のT細胞を増やし、それがCTLA-4とTGFβを使って攻撃的な免疫細胞を抑えることを詳しく示しています。

この研究はなぜスゴイの?

この研究は、脳と免疫系がどうやってコミュニケーションをとっているのかという、長年の謎を解明する大きな一歩です。

昔の科学者たちは、脳は「免疫特権」があって、免疫系から完全に隔離されていると考えていました。でも、この研究から、脳は積極的に免疫系と会話していて、「特別なパスポート分子」を使って「やさしい警備員」を育てていることがわかりました。

これは、多発性硬化症(MS)などの自己免疫疾患の新しい治療法につながる可能性があります。将来、人間のMSの患者さんに、自分の脳のパスポート分子を使った治療ができるかもしれません。そうすれば、今よりもっと効果的で、副作用の少ない治療ができるようになるでしょう。

まとめ:この研究でわかったこと

  1. 脳には特別な「パスポート分子(MBPペプチド)」があり、免疫系に「これは正常な脳の一部ですよ」と伝えています。
  2. このパスポート分子は、免疫系の細胞を「やさしい警備員」モードに変えます。
  3. 「やさしい警備員」モードの細胞は、「CTLA-4」「TGFβ」という物質を使って、攻撃的な免疫細胞を抑えます。
  4. 病気になると、脳のパスポート分子が減ってしまいます。
  5. 減ったパスポート分子を補充すると、病気の症状が軽くなります。
  6. この発見は、多発性硬化症などの病気の新しい治療法につながる可能性があります。

原論文の引用情報

Kim, M.W., Gao, W., Lichti, C.F., Gu, X., Dykstra, T., Cao, J., Smirnov, I., Boskovic, P., Kleverov, D., Salvador, A.F.M., Drieu, A., Kim, K., Blackburn, S., Crewe, C., Artyomov, M.N., Unanue, E.R., & Kipnis, J. (2025). Endogenous self-peptides guard immune privilege of the central nervous system. Nature, 637, 176-183. https://doi.org/10.1038/s41586-024-08279-y

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