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がん細胞のスイッチを直す魔法の道具

みなさんは、おもちゃや電気製品のスイッチが壊れて、ずっとついたままになってしまったことはありますか?押しても押してもオフにならないスイッチがあったら、困りますよね。実は、わたしたちの体の中にも「スイッチ」があって、それが壊れるとがんという病気になることがあるんです!

科学者たちは、この壊れたスイッチを直す「魔法の道具」を見つけました。この発見は、たくさんのがん患者さんを助ける新しい薬につながるかもしれない、とても重要な研究なんです。

体の中の「スイッチ」RASタンパク質とは?

わたしたちの体は、たくさんの細胞でできています。細胞たちは、体の中で大事な仕事をするために、お互いに連絡を取り合って協力しています。

そんな細胞の中に、RAS(ラス)というとても重要なタンパク質があります。RASタンパク質は、細胞の成長や分裂を指示する「スイッチ」のような役割をしています。

通常、このスイッチは次のように働きます:

  1. スイッチがONになると、細胞に「増えてもいいよ」と指示します
  2. しばらくすると、自動的にOFFになって「もう十分だよ」と指示します
  3. 必要なときだけ、また ONになります

健康な体では、このスイッチのON/OFFが上手にコントロールされています。まるで、交通信号が赤と青を正しく変えるように、RASスイッチも正しくON/OFFを繰り返しているのです。

壊れたスイッチとがん

ところが、時々このRASスイッチが変異(へんい)して壊れてしまうことがあります。変異とは、タンパク質の設計図(DNA)に小さな間違いが起きることです。

壊れたRASスイッチはどうなるでしょう?そう、ONになったままで、OFFにできなくなってしまうのです!これは、故障した自動販売機のボタンがずっと押されたままになっているようなものです。

OFFにできないRASスイッチを持つ細胞は、「増えて!増えて!」という指示を受け続けます。その結果、細胞は止まらずにどんどん増殖して、がんになってしまうのです。

実は、全世界で毎年約340万人が、このRASスイッチの故障が原因のがんと診断されています。だから、壊れたRASスイッチを直す方法を見つけることは、多くの人の命を救うことにつながるのです。

RASスイッチが壊れる仕組み

では、どうしてRASスイッチはOFFにならなくなるのでしょうか?それを理解するために、もう少し詳しくRASの仕組みを見てみましょう。

実は、RASスイッチには「GTP」(ジーティーピー)という小さな部品がくっついています。これは、スイッチをONにするための「電池」のようなものです。通常、RASタンパク質は、この「GTP電池」を「GDP」(ジーディーピー)という使用済みの電池に変える(加水分解する)ことで、自分自身をOFFにします。

正常なRASはこの「電池交換」が上手にできますが、変異したRASはこれができなくなっています。まるで、電池を抜く機能が壊れてしまったおもちゃのように、ずっと動き続けてしまうのです。

科学者たちは長い間、この壊れた「電池交換」機能を修理する方法を探していましたが、とても難しく、諦められていました。

魔法の道具「トライコンプレックス阻害剤」の発見

今回の研究で、科学者たちは画期的な発見をしました!「トライコンプレックス阻害剤」(TCIと略します)という薬と、「シクロフィリンA」(CYPAと略します)というタンパク質を組み合わせると、壊れたRASスイッチの「電池交換」機能を復活させられることがわかったのです!

これは、壊れたおもちゃを修理するための特別な工具を見つけたようなものです。この「修理工具」は、RASスイッチの特定の部分(スイッチII領域)を調整することで、GTP電池を再び取り外せるようにするのです。

図1:様々なRAS変異に対するCYPA結合能力の違い

図1の説明: 上の図は、魔法の道具(TCI)を使ったときに、シクロフィリンA(CYPA)というタンパク質が様々なタイプの壊れたRASスイッチにくっつく様子を示しています。左側のKRAS、真ん中のNRAS、右側のHRASは、体の中にある3種類のRASタンパク質です。G12D、G12VなどはRASスイッチの壊れ方の種類を表しています。

修理できるスイッチと修理が難しいスイッチ

面白いことに、この「修理工具」はすべての壊れたRASスイッチを同じように直せるわけではありませんでした。スイッチの壊れ方(変異の種類)によって、修理のしやすさが違うのです!

科学者たちは、様々な種類の変異RASを調べました。すると、G12DG12AG12SG12VG12CG12Rという名前の変異(すべて12番目のグリシンというアミノ酸が別のものに変わっている)は修理しやすいことがわかりました。

一方、Q61X(61番目のグルタミンが変わっている)やA59T(59番目のアラニンが変わっている)という変異は、ほとんど修理できませんでした。G13X(13番目のグリシンが変わっている)とK117N(117番目のリシンが変わっている)は、中間くらいでした。

図2:様々なRAS変異に対する加水分解促進効果の違い

図2の説明: この図は、魔法の道具(CYPA-RMC-7977)が様々な種類の壊れたRASスイッチの「電池交換」機能(GTP加水分解)をどれくらい復活させられるかを示しています。上から2番目のグラフ(b)を見ると、G12D、G12A、G12Sなどの変異は修理しやすいこと、Q61Lなどの変異はほとんど修理できないことがわかります。

修理の仕組みを詳しく調べる

科学者たちは、どうして「修理工具」がRASスイッチを直せるのか、その仕組みを詳しく調べました。そのために、非常に強力な顕微鏡を使って、RAS、CYPA、TCIの3つが組み合わさった様子を撮影したのです。

その結果、次のことがわかりました:

  1. 「修理工具」は、RASスイッチのスイッチIIという部分に働きかけます
  2. この働きかけにより、Gln61(61番目のグルタミン)というアミノ酸の向きが変わります
  3. 向きが変わったGln61は、水分子とGTP電池を正しい位置に固定します
  4. その結果、GTP電池が取り外せるようになるのです!

これは、壊れたおもちゃの内部で、ねじれていた部品を正しい向きに直すことで、再びスイッチが働くようになったと考えることができます。

図3:RAS修理の構造的基盤

図3の説明: この図は、魔法の道具(CYPA-RMC-7977)が様々な種類の壊れたRASスイッチをどのように修理するかを、分子レベルで示しています。上の3つの図(a, b, c)は、G12C、G12S、G12AというRASの変異タイプが、修理工具によってどのように調整されるかを示しています。下の3つの図(d, e, f)は、G12D変異の場合を示しています。

G12D変異の特別な仕組み

特に興味深いのは、G12D変異(12番目のグリシンがアスパラギン酸に変わった変異)の場合です。この変異は、「修理工具」による修理が最も効果的でした。

詳しく調べると、G12D変異では、変異したアスパラギン酸のカルボキシル基(マイナスの電荷を持つ部分)が重要な役割を果たしていることがわかりました。このカルボキシル基は、GTP電池を取り外す過程で、水分子をより活性化させるか、または電池の位置を変えることで、修理を助けていると考えられます。

これは、壊れていたはずの部品が、実は修理過程では逆に役立っているという、とても面白い発見です!

図4:修理に重要なRASのアミノ酸

図4の説明: この図は、RASスイッチの修理に重要なアミノ酸を調べた実験結果です。(a)は異なるRAS変異での「電池交換」機能(GTP加水分解)の回復を示しています。(d, e, f)ではG12D変異のアスパラギン酸を別のアミノ酸に置き換えた場合の影響を調べています。カルボキシル基(-COOH)を持つアミノ酸(Asp, Glu)は修理効果が高いですが、アミド基(-CONH2)を持つアミノ酸(Asn, Gln)は効果が低いことがわかります。

スイッチを修理するとがん細胞はどうなる?

壊れたRASスイッチを修理できるようになったら、がん細胞はどうなるのでしょうか?科学者たちは、この「修理工具」をがん細胞に使ってみました。

その結果、修理しやすいタイプの変異(G12X)を持つがん細胞は、修理が難しいタイプの変異(非G12X)を持つがん細胞よりも、「修理工具」による治療効果が高いことがわかりました。修理しやすいタイプのがん細胞では:

  1. がん細胞の成長を促すシグナル(ERKというタンパク質の活性)がより強く抑えられました
  2. その抑制効果がより長く続きました
  3. がん細胞の増殖がより効果的に抑えられました
  4. 動物実験では、腫瘍の成長がより強く抑えられました

これらの結果は、「修理工具」を使って壊れたRASスイッチの「電池交換」機能を復活させることが、がん治療に役立つことを示しています!

図5:RAS修復ががん抑制に与える影響

図5の説明: この図は、魔法の道具(RMC-7977)がRASスイッチを修理することで、がん細胞にどのような影響を与えるかを示しています。(b)では細胞内のERKシグナル(がん細胞の成長を促す信号)がどれだけ抑えられるか、(e)ではがん細胞の増殖がどれだけ抑えられるか、(f)では動物実験での腫瘍の成長がどれだけ抑えられるかを示しています。いずれも、G12X変異(修理しやすいタイプ)のがん細胞の方が、非G12X変異(修理が難しいタイプ)のがん細胞よりも効果が高いことがわかります。

この研究はなぜスゴイの?

この研究は、40年以上にわたって諦められていた「変異RASの修理」という夢を実現した画期的な発見です!

今までは、変異RASの「電池交換」機能を復活させることは不可能だと考えられていました。しかし、この研究によって、特定の薬物(TCI)とタンパク質(CYPA)の組み合わせが、壊れたRASスイッチを修理できることが初めて証明されたのです。

この発見は、世界中の多くのがん患者さんにとって、新しい希望となります。特に、現在有効な治療法が少ないタイプのがん(膵臓がんやある種の肺がんなど)の治療に役立つ可能性があります。

まとめ:この研究でわかったこと

  1. 体の中にはRASタンパク質という細胞増殖のスイッチがあります。
  2. このスイッチが変異して壊れると、ONのままになりがんになることがあります。
  3. 壊れたスイッチはGTPという「電池」をGDPに変える(加水分解する)ことができなくなっています。
  4. 科学者たちはトライコンプレックス阻害剤(TCI)とシクロフィリンA(CYPA)を組み合わせた「修理工具」を開発しました。
  5. この「修理工具」は、特にG12X変異のRASスイッチの修理に効果的でした。
  6. 修理の仕組みは、スイッチII領域の調整とGln61の向きを変えることで、GTP加水分解を助けることです。
  7. G12D変異では、変異したアスパラギン酸のカルボキシル基が修理を助けていました。
  8. 「修理工具」による治療は、修理しやすいタイプの変異を持つがん細胞で特に効果的でした。
  9. この発見は、新しいがん治療法の開発につながる重要な一歩です。

原論文の引用情報

Cuevas-Navarro, A., Pourfarjam, Y., Hu, F., Rodriguez, D. J., Vides, A., Sang, B., Fan, S., Goldgur, Y., de Stanchina, E., & Lito, P. (2025). Pharmacological restoration of GTP hydrolysis by mutant RAS. Nature, 637, 224–229. https://doi.org/10.1038/s41586-024-08283-2

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